作品名排水口
元ネタオリジナル
公開日20161113
公開場所なし
頒布イベントサンシャインクリエイション2016Summer
掲載誌文楽(2016秋)

こぽゝゝゝゝ。 渦を巻き音を立てゝ、水が排水口へ飲み込まれてゐく。 何の事は無ひ、からんを捻り蛇口から水が出、其れが流れ去ってゐくだけとは、上下水道が完備された現代では自然の摂理と謂つても過言ではなひ。 水の豊かな此の国では僅かな金を払へば水が使い放題である。無駄だ浪費だ高慢だと、高説垂れる心算も無ひ。世の中バランスが取れているもので、水が無ければ金か石油かヂヤマントかウラニュウムか、大体何かは在るものだ、時間も命も思想さへも金で買へる世の中だ、水の一滴如きにがたがた謂ふな。 水だつて、命を絞れば取り出せるに違い無ひのだ、金で命を買へる人はきつと然うする、酷い話だが。 こぽゝゝゝゝ。 ごぼっ。上の階にも下の階にも人はゐる。隣の部屋にも住んでゐる。うちには生憎、望む命や欲しい時間や好きな思想を買い入れる豊富な金は無ひ。 だが、この国に産まれたのだから、豊富ではなひ金で潤沢な水を買へるのなら其れを享受したつていゝだろふ。上の階にも下の階にも人はゐる。隣の部屋にも住んでゐる。皆同じ、水を、湯水の如く使ふ。金を湯水の如く使ふより幾らか道徳的だと、然ふは思わなひか?私は、然う思ふ。上下水道が完備されたこの国で、「水道水」が水道管を脱ぎ捨てゝ、「水」に成るのはほんの一瞬の事。何の事は無ひ、からんを捻り蛇口から水が出、其れが流れ去つて行くだけとは、上下水道が完備された現代では自然の摂理と謂つて過言ではなひ。
「水道水」が水道管を脱ぎ捨てゝ、「水」に成るの僅か数秒、長くたつて風呂や洗濯に溜めてゐる時間位のものである。 ごぼゝゝゝっ。 私が水を使わなくても、排水口から音が響く事がある。上の階にも下の階にも人はゐる。隣の部屋にも住んでゐる。私と同じやうに、命を湯水の如く使ふ事が出来ず、水を湯水のやうに使ふ小市民が、生きてゐる証だと思つた訳だ。何せ水道管でここもそこもあそこもどこも繋がつてゐるのだ。 ふと、今迄全く気にも留めていなかつたが、自分の隣人が何と謂ふ人なのか、気になつた。 此れまでくどくどと独りごちてゐるやうに、我が家(独り暮らしだが)は集合住宅の一室である。上の階にも下の階にも人はゐる。隣の部屋にも住んでゐる。私の名は水無瀬と謂ふ、はて、隣人の名は、上の階の人は、下の階の人間は、何と謂ふのだらう。 幸ひにも、我が家が軒を連ねる集合住宅は、セキユリテイよりも住人同士の和の方を貴ぶのらしい。其の甲斐もあつてか、私は隣人も上の階の人も下の階の人間も、誰一人の名も知らぬのである。然うゐふ事だから、エントランスのホヲルを少しばかり入つた処に同じやうな顔をずらりと並べるポストには、例外無く名前が書ひてあるのだ。嗚呼、仲良き事は美しき哉、其れを見れば名も知らぬ隣人の名も、一時に知ることが出来やう。 だが其の前に、小用を足したい。あの能面の並んだやうなホヲルで隣人共の名を知る其の前に、汽車から降りて我が家(諄いやうだが独り暮らしである)へ向かふ前に、私は厠へ向かつた。蛇口だらけである。からんは蛇口と同じ数だけ禿げた頭を立てゝゐるし、また其れと同じだけぽかんと開ひてゐるのは、排水口である。厠とは洩れなく斯うゐうものであらうとは思ふが、誰一人として他に客の居なひ公衆厠と云ふのも何處か物哀しきものである。ちよんちよんと立ち居並ぶ小便器も、淋しげに見へる。ようく見れば、然うして排水口を開けた便器と云ふのは、どうにも人の顔のやうに思へて仕方が無くなつた。 「如何ですか、景気は」等と声を掛けてしまつた。すると。 ごぼぼぼ。返事を呉れるやうに彼の音が響くではなひか。 ははあ、然う謂へば此の駅は二階建てゞ上の階にも同じく厠があつたな。成程此の駅でさへ、我が家と同じなのだ。 「然あらば、私は此れにて」便器に向かつて挨拶と云ふのも可笑しな様子ではあるが、今の私には其れなりの礼儀もあらうと思へたのだ。 サテ、件のホヲルである。今迄気にも留めなかつた、否、プライバシイとか云ふものを無意識の内に気にしてか、敢へて目を逸らし続けてゐたのらしひ、然うでなければ此んなにも近しい位置に在る札を一度も目にした事が無ひ等と、不自然な話である。ふうむ、と顎を触り乍ら改めてまじまじと其れを眺めれば、ポストのずらりと並ぶその貌は納骨堂の其れと似てやゐなひだらうか。ふと浮かんだそんな考えを振り払うやうに、私は自分の住まう三〇一号室の前へ立つ。いつも通りに中を確認してから、上下左右の納骨室ポストの扉に貼られてゐる札を見る。 水無瀬 驚ひた事に右隣にも同じ名前の人間が住んでゐるのらしい。では左隣は。 水無瀬 面妖な事だ。上は。 水無瀬 ……下は。 水無瀬 流石に悪い厭がらせに思へる。何だつて隣人片つ端から私と同じ名前だと謂ふのだ。他の部屋の納骨室ポストの札も見てみるが、皆一様に「水無瀬」である。 どれも。 これも。 それも。 片つ端から「私」であつた。 何だと謂ふのだ、此れは! 然しもの私も気味悪く寒気を感じ、早足で階段を昇り自宅へと潜り込んだ。自分の足を戸で挟んで仕舞う程に急ひて閉め、錠をかる。息が上がつてゐた。無理も無ひだらう、此んな冗談染みた悪戯、誰が喜ぶと云ふのだ。此の集合住宅には「水無瀬」しか、否、「私」しか住んでゐなひとでも、云ふのだらうか、莫迦莫迦しい。きつと疲れてゐるのだ、此の処、あの音が響いて夜は良く眠れてゐなひ、其の所為に相違無かつた。 私はコツプをむんずと掴んではからんを捻つて水を喚んだ。水道水は滾々と出で水道管を脱ぎ捨てゝ水と成りコツプを満たしてゐく。溢れ零れた水は排水口へ逃げ込んで、再び水道水へと戻る、上か下かの違いだけだ。 こぽゝゝゝゝ。 此の音だ、私を苛むのは。水を湯水のやうに使ふ度、私は誰かと繋がるのだ。排水口の向こうにゐる何者かと。上の階にも下の階にも人はゐる。隣の部屋にも住んでゐる。どの部屋にもからんと蛇口とそして排水口が、ぽつかりと口を開けてゐるのである。其処からはきつと、自分の立てる音と、自分以外の何者かが立てる音が、一緒くたになつて混じり合ひ、斯うして伝わつて往くのである。上の階にも下の階にも人はゐる。隣の部屋にも住んでゐる。「水無瀬」が、住んでゐる。それは別の「水無瀬」であらうか?何れの「水無瀬」も、本当に私と別人なのであらうか。 ごぼゝゝゝっ。 排水口から此度響いたのは私の音ではなひ。だが、此れは真に私の音ではないのだらうか。並んだ便器。揃ふポスト。私の住む集合住宅。ぽつかりと開ひた排水口。張り巡らされた水道管、と、人間水無瀬。コツプを満たした水を、私は其れを追い払ふ為に呑み干した。漠然と私を取り巻く消失のネツトワアク。遍在と云ふ霧散。接続と云ふ埋葬。コツプを満たした水を、私は呑み干した。一気に、飲み干した。 ごぼゝゝゝ。 ごぼっ。 また、音が響いた。 その音は酷く近い処そう、私の喉から聞こへた音だつた。